2012年5月2日水曜日

終わらない窓付きインターフェイス:JRPGとマンガ文化

スマートフォンという広大なプラットフォームの成立の結果、新たな開発者やユーザーがゲームの世界に入ってくる。しかしながら、日本のAndroid市場の保守的な様子には唖然とさせられる。特に有料ゲームの多くはフィーチャーフォンからの移植されたRPGが中心。それも未だにドラクエ・FF時代からの変化をまったくと言うほど感じられないUIなのだ。

なにゆえ、日本人はウィンドウのUIを愛好し、キャラクターの顔が拝めるメニュー画面を見続けているのだろうか?これは単なる開発者の怠慢なのか?おそらく多くの海外のゲーマーや開発者はこのレガシー的なUIを大いに馬鹿にするか、畏敬の念を持って眺めるだろう。

ここに一つの仮説がある。それは日本人に強く根付いているマンガというカルチャーの存在だ。マンガ理論の多くは、それが「絵」、「コマ」、「フキダシ」、「テクスト」で構成されると分析する。ここで言う「絵」と「フキダシ」と「テキスト」という構成は、JRPGにおける「キャラクターグラフィック」、「ウィンドウ」、「テキスト」に相当するのは一目瞭然だ。つまりJRPGとはマンガなのだ。え、そんなの前から知ってた?まあそうだろう...。

だが問題は日本のマンガ文化にはそれ相応の美学があり、進化もあり、発展もあるのだが、JRPGに未来はあるのかという点だ。少なくとも、ストーリーという点でJRPGが多くのマンガに太刀打ち出来ないのは間違いない。今やマンガは文学に匹敵するメディアであり、大人が読むのは当然のことだ。一方で、JRPGは大人になってもやるのだろうか。もちろん、ドラクエやFFにはそれ相応のファンがいるし、NESやSNES時代のレトロゲーム愛好家も多い。かく言う私もサガシリーズに関してはフリークだろう。

だがそういうファンは何も大人としてそれらのゲームを楽しんでいるわけではない。自覚的に自分が懐古的なゲーマーであったり、ある種のカルトであることを認めている。それに大人にそれらのゲームを強く進めることはしないという点だ。結局のところ、多くのJRPGはマンガ文化の豊潤さにはとてもかなわないのである。

ではどこで勝負すべきなのか?ゲーム性?まさか...。

個人的にはJRPG自体がレガシーと化することには感傷的になる必要はない。ある一つのゲームジャンルが廃れることは珍しいことではないのだから。ただJRPG的なUIが残る可能性としてありうるのは、もっとエクスペリメンタルな方向性ではないかと感じている。例えば「ゆめにっき」。RPGツクールというこれまたミドルウェアと呼ぶにはお粗末な箱庭だが、それでもユーザー数に比例してクリエイティヴィティは発揮される。確かにお粗末なUIにお粗末なグラフィック。だが使いようによっては新しい表現が可能であることを、「ゆめにっき」は教えてくれたように思える。その主人公の名前が「窓付き」であったことは偶然だろうか。あれはJRPGに対するある種のセルフパロディであり批評なのではないか。

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